永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。
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【「只管打坐」ハートで坐る坐禅 2 】
わたしは接心の後など、周りの環境がどういうわけか瑞々しくというか、妙に生き生きと感じられることがしばしばある。
それまで自分のまわりにかかっていた薄いベールが取り払われて、まわりがくっきり見えるようになった感じがするのである。
それは思考というノイズが自ずと減って、現在与えられている感覚への感受性、チューニングの精度が高まったからではないだろうか。
マインドの思考が鎮まって、ハートの感受性が発揮されたからだと言えるのかもしれない。
『普勧坐禅儀』の中で坐禅のときは「不思善悪」、「莫管是非」であると言われている。
しかしわれわれは、日常生活においてはそれこそ四六時中、そして坐禅の時でも往々にして、「善悪を思い」、「是非を管じ」ているのが現実だが、それはこのマインドの仕業なのだ。
また、坐禅の時には「停(やす)む」はずの「心意識の運転」や「止まる」はずの「念想観」を駆動してやまないのもこのマインドなのである。
マインドの主要な機能は、思考によってすべてを分割することだ。
あらゆるものを二元に分割して、いつもどちらかを選ぼうとする、分別し、はからう心がマインドである。
好きか嫌いか。
損か得か。
善か悪か。
光か闇か。
ポジティブかネガティブか。
愛か憎しみか。
正しいか間違いか...。
マインドにとっては、この二つが同時に正しいことはありえない。
「あれかこれか」のどちらかしかない。
また、マインドは「予期できること」や、「すでに知っているもの」に対してしか働かない。
「予想できないもの」、「未知なもの」、「ことばでは言い表せないもの」、「ことばを越えているもの」には理解が及ばない。
こう見てくると、マインドは道元禅師が「吾我」と呼んでいるものに相当していると考えてよいだろう。
前回の論考で述べた、task-centeredな営みではこういう特徴をもつマインドが主役を演じている。
だから、マインドがリーダシップをとって坐禅修行をすれば、それは必然的にtask-centeredなものになる。
マインドが欲していることを満足させようという外的なゴールを目指して懸命の努力をすることになるからだ。
この点に関して『学道用心集』の「有所得心を用って仏法を修すべからざる事」の条には 「所謂、操行と道と合せんには、如何が行履せん。心、取捨せず、心、名利無きなり。仏法修行は是れ人の為に修せざるなり。今の世人の如きは、仏法修行の人、其の心、道と遠くして遠し。」と書かれている。
ここで「取捨しない心、名利の無い心」と言われている「心」はマインドの方ではなく、ハートの方であることをくれぐれも取り違えてはならない。
マインドにとっては、取捨しないとか名利にこだわらないという芸当は、その本性としてもともと不可能なのである。
「其の心、道と遠くして遠し」と道元禅師が嘆いている「其の心」はマインドのことである。
当時も、ほとんどの人がマインドでもって仏法修行しようとしていたということになる。
有所得心=分別心=マインドをもって仏法を修すべからず、ということを現代のわれわれもまた肝に銘じておかなければならない。
マインドからハートへのシフトが、修行の始めになければならないというきわめて重要な修行のポイントについて、ここまではっきりと明言している教えが残されている、わが宗門の伝統に感謝の念を禁じ得ない。
道元禅師は、task-centeredな修行のあり方を「染ぜん汚(な)」といって批判し、坐禅は「不染汚の修証」でなければならないと主張している。『正法眼蔵唯仏与仏』の巻には次のような説示がある。
「不染汚とは、趣向なく、取捨なからんと、しひていとなみ、趣向にあらざらん処、つくろひするにはあらずなり。いかにも趣向せられず、取捨せられぬ不染汚の有なり」と。
ここでも、趣向もないし取捨もない不染汚であり得るのはマインドではなく、ハートの方である。
マインドが不染汚をめざして努力するのが「しひていとなみ」「つくろひする」ことなのだ。
マインドが仏教を学び、戒を守り、瞑想や坐禅に励んでいるなら、本人がいかにそれを「信仰」と呼んで大切にし、「修行」といって他に誇ろうとも、それは「単なる自我の営為」にとどまるということだ。
マインドは坐禅を自分の目的の成就のために利用し、あらかじめ設定した結果に向かって趣向し、あれこれとはからって取捨することに血道をあげる。
これでは人間の業ではあっても仏行にはならない。
たとえば、慈悲ということをマインドが修行すると、今はまだ存在していない慈悲を、自分の努力によって、未来において創りださなければならない課題として、設定するという話になる。
一方、ハートは慈悲という徳が、自らのうちにすでにあることを知っている。
だからそれが、外に向かって花開いていく条件を調えるだけでいいのだ。
その最大の条件は、マインドが鎮まることである。
道元禅師が「吾我を離れる」ということを修行の用心として、口を酸っぱくして強調されるのも、この点に関わっているのである。
「仏法は人の知るべきにはあらず。この故に昔より、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし」(『正法眼蔵唯仏与仏』)
『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋