永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜「マインドフルネス」と坐禅(1)~3 】

 先ほど述べた、ティク・ナット・ハン師は、『禅への鍵』の第一章において、次のような釈尊と当時の思想家との問答を引いて、「仏教においてはマインドフルネスがあるかどうかということが最も大事です...(中略)...マインドフルネスは仏教のすべての修行の根底をなすものなのです」と書いている(拙訳『禅への鍵』春秋社刊)。

「仏教というのは悟りを説く教義だと聞いています。仏教ではどんな方法を用いるのですか?毎日どんな修行をするのですか?」「私たちは歩きます。食事をします。体を洗います。坐ります。......」「そういった行為のどこに特別なことがあるのですか?誰だって歩くし、食べたり、洗ったり、坐ったりするではありませんか?」「いいえ、そこには違いがあります。私たちが歩くときには、自分が歩いていることにはっきり気づいています。自分たちが食べている時は、食べていることにはっきり気づいています。......他の人たちは、自分たちが歩いたり、食べたり、洗ったり、坐ったりするとき、たいていは、自分のしていることに気づいてはいません」


同じ章で、彼が僧院に入って間もなく先輩僧から渡された、修行の手引書の一つである『毘尼(に)日用切要』について触れ、そこに掲載されている偈頌をいろいろな活動をするときに、口であるいは心で唱えることで「日常生活におけるひとつ一つの行為にマインドフルネスのエネルギーが行きわたるようにする」という実践を紹介している。

これはたとえば、われわれが入浴の時に「沐浴身体 当願衆生 心身無垢 内外光潔」という開浴の偈を唱えながら、跋陀婆羅菩薩に三拝するという入浴作法のことを思い浮かべればよいだろう。

入浴という日常の行為を、なおざりに浅いレベルでするのではなく、それを深く行うためにこそ、そのような作法が型として伝えられているのだ。

そこにマインドフルネスがなければ、動作を外面的にいかに美しくこなしても、それは心の伴わない単なる形に堕してしまう。

このような彼のマインドフルネスの説き方からすれば、道元禅師の『典座教訓』や『赴粥飯法』、『正法眼蔵洗面』、『正法眼蔵洗浄』、などはまさにマインドフルネスの書とも言っていいし、曹洞宗のスローガンになっている「威儀即仏法 作法是宗旨」は文字通りマインドフルネスそのもののことだと言える。


マインドフルネスが盛んに取り上げられている昨今、曹洞禅の教えをマインドフルネスという観点から、改めてとらえ直してみるというのは意味のある作業ではないだろうか?

それはもちろん坐禅についても言えることだ。

マインドフル瞑想と坐禅は同じなのか、違うのか、あるいはどこが同じで、どこが違っているのか?

こういう質問は、わたしがアメリカにいる時によく受けたものだが、これからは間違いなく日本でも坐禅の指導者が受けることになるだろう。

だとすれば、それにどう応えるかを各自で検討しておく必要がある。

宗門としてもその用意をしておくことが要請されている。


実は、十一月十六日に曹洞宗総合研究センター主催で「只管打坐とマインドフルネスとの対話~一仏両祖が目指した坐禅とは~」と題する講演とパネルディスカッションが開かれることになっている。

そこでは、テーラワーダ仏教の指導者スマナサーラ長老、マインドフルネスに基づく認知行動療法を研究・実践している早稲田大学の精神科医熊野宏昭先生、そしてわたしの三人がそれぞれ講義を行い、それを受けてわれわれ三人と曹洞宗僧侶五人で、パネルディスカッションを行う予定だ。

これはある意味、他の宗派に先駆けた画期的な試みで、高く評価できるのではないだろうか。

今回の論考は、そこでの講義に向けての準備の途上で書いている。

結論を言えば、わたしは坐禅はマインドフルネスの実践そのものだと思っている。

ただし、それは今流行しつつある「有心のマインドフルネス」ではなく「無心のマインドフルネス」である。

普段のわれわれのあり方は、マインドフルネスの欠如した、いわば「マインドレスネス」(刺激に対して習慣的にリアクション・パターンが起動してい る自動操縦状態)だと言える。

これに対して、それではいけないということで、マインドフルネスというスキルを、テクニックとして身につけて、もっとマインドフルになろうとするのが「有心のマインドフルネス」である。

しかし、それでは有所得の「習禅」であり、坐禅ではないのではないかというのが、わたしの言いたいことなのだ。

紙面が尽きたので、ここからの議論は次回に持ち越すことにしよう。

できれば、上記の講演やパネルディスカッションで話されたことを盛り込んで書いてみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋