永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

【「只管打坐」〜「坐禅」をunlearnする〈坐禅〉〜3 】

「坐禅」というのは道元禅師が「習禅」と呼んでいる営みに他ならないとわたしは考えている。

習禅と坐禅の決定的違いをどのように理解し、表現するかというのが、この拙い連載の一つの柱なので、これまでそのことについて、いろいろと論じてきた。

今回は、それを「坐禅」と〈坐禅〉という区別を通して試みようとしているのだ。

坐禅にしても、禅にしても(ここで禅というのは坐禅の背景になっている哲学のことを言う)しばしば難しいと言われるが、それはその人が〈坐禅〉や〈禅〉であるべきものを「坐禅」や「禅」にしているからではないか。

つまり自分のではない、「他人の」坐禅を坐ろうとし、「他人の」禅を知ろうとしているからだ。

他人のやり方を真似るのではなく、今の自分はそれをどんなふうにやりたがっているのかに耳を澄まさなければならない。

それには勇気というか、他人の考えや期待という鋳型に合うように自分を作り上げるのではなく、本当の自分らしくありたいという決意が必要になる。

坐禅はこうやってするものだという一連の型にしたがって動いているだけで、その動きが内側から内発的に起こったものでないなら、それは鏡の前で自分の動きを見ているようなもので、その動きは少しも内側から感じ取られていない。

教えられた世界と感じられた世界との間には、はかり知れないほど大きな違いがある。

「○○」と〈○○〉の違いの一つはそこにあるように思われる。 

昔、演劇の稽古風景を見たことがある。

指導者が、俳優たちに「石になりなさい」という指示を出す。

彼らはそれぞれのやり方で石の演技をするが、指導者はどれにも満足しない。

「それじゃあ駄目だ。君たちは石になろう、なろうと一生懸命に努力をしているが、石は石になろうという努力なんかしないぞ。石を演技するんじゃないんだ。ただ石になるんだよ。わかるか!」と叱る。

石というのはこういうものだという、誰かに刷り込まれた概念やイメージを頼りに「石っぽく」振る舞うのと、端的に石であるのとは違うのだ

「石」と〈石〉。

演技の稽古のはずなのに演技してはいけないとは、いかにも禅的ではないか。

彼らは「演技」ではなく〈演技〉を要求されていたのだ。

これはまさに公案そのものである。

教え込まれた行動様式、自分のものではない他人のもの、それがどういうものであるかに細やかに気づいていくこと。

何が自分らしくないのかを深く知ること。

教え込まれたものと、本当の自分から生み出されてくるものとの違いに、はっきりと気づくこと。

「坐禅」を〈坐禅〉へとunlearnしていく上では、そういう作業が要求される。

この作業抜きに、言われたとおりに坐禅についての教示を忠実にこなしていこうとするなら、それは「坐禅」になる。

必然的に、外的基準に照らして自分に何ができていないかを探そうとすることになるから、思い悩みや不安を生みださざるを得ない。

それに対して、自分に感じられているものを見つけ、それをあるがままに認め、それが変化していくことを受け入れていくという道筋をたどるのが〈坐禅〉である。

ここでは何が起きたとしても、それがいったい何であるのかを虚心坦懐に探検していくので何の心配もいらず、道元禅師の言うように「安楽の法門」に自然になっていく。

ここで論じたような「坐禅」と〈坐禅〉の区別の重要性という問題意識が、宗門においてどのくらい共有されているのか、わたしには知る由もないが、当然のこととして、坐禅会も「坐禅」会ではなく、〈坐禅〉会へと育っていくようなヴィジョンと指導法が確立されなければならないと思う。

「こうじゃなくちゃならないのに、それができていない自分はなんて駄目なんだろう」という他人行儀な「坐禅」ではなく、「ああ、そうだったのか!?」と生きている自分に素直に感動できる〈坐禅〉を、みんながそれぞれに味わえるような集まりを、場を、どのようにすれば作り出していくことができるかということを真剣に工夫していかなければならないのではないだろうか。 

その工夫のための一つのヒントは、坐禅を「自分がコントロールできる領域のものとしてではなく、自然の延長としてとらえる」、という坐禅観の根本的な転換を図ることだ。

坐禅を自分が、コントロールできる領域のものとしてとらえている限り、あらかじめ決められた所定の位置に、身体の一部を持って行こうとしたり、筋肉で何かをやろうとしたりすることになる。

しかし、それでは誰か他人が作った(たとえ、それが道元禅師であっても他人には相違ない)指令書にしたがって、自分の体を操作しているに過ぎないから、坐禅の形をなぞるだけになってしまい、自由で生き生きした自分の坐禅にはならない。

坐禅が自然の延長としてとらえられていれば、そういう「自分がやっている感」が少なくなるような方向で工夫が試みられるようになる。

意識が能動的にやることが少なくなればなるほど、つまり受動的になればなるほど、身体はより能動的になっていくという面白いことが起こる。

この点については、紙面が尽きたので次回に持ち越すことにしたい。

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋