(前回の講義)

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今回も、前回カバーした「然(しか)りといえども、毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸(はるか)に隔(へだた)り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心(しん)を失(しっ)す」の箇所についてもう少し話してみたいと思います。

 

今、ここの自己を成り立たせている原事実は人間的努力の及ばぬところですでに、行き渡っていて、自在無礙に働き、今ここを離れていないということが冒頭でまず押さえられていました。

われわれが人生においてなすことはすべてがこの原事実の上において、それを根拠として初めて可能であること。

この相対と絶対という次元の違いをアタマを使ってまず理解しておかなければ坐禅は始まらないということです。

相対的な人間的努力としての修行がここでは無効なものになります。

親鸞はそれを「自力無効」と言いました。

そして自力的な努力を「雑行(ぞうぎょう)」として放棄し、大行(たいぎょう)としての念仏に帰したのです(「雑行を捨てて大行に帰す」)。

これは、ブッダが苦行を捨てて樹下に打坐したことと対応していますし、道元が如浄のもとで大事を了畢(りょうひつ)し、只管打坐の道に決定したこととも対応していると思います。


自力無効を悟った後に出てくるのが念仏であり、坐禅であること。

ここを外して、人間的努力の地平で坐禅をとらえてしまうと、同じようなことをしていても、その光景は天と地ほどの隔たりがあり、相変わらず人間的な感情や分別の範囲で坐禅を料理しようとしてしまいますから、ますます本来の仏心を見失ってしまうのです。

違順に基づく人間の分別のロジックを通して坐禅を計量してはならないし、それはもともとできないことなのです。

そういう大脳皮質レベルの認識を超えて、皮質下の組み替えにつながる身心の丸ごとをあげての行為として取り組むべきものなのです。