永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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岡潔は「特に日本人は第二の心のあることが非常によくわかる。もし、西洋かぶれさえしてなかったら、心が第一の心だけしかない等と、そう云うはずがないと云うことが直ぐにわかる」と言っているが、果たして今のわれわれ日本人はどうなのだろう。もしかしたら、「西洋かぶれ」が長年にわたって進んだせいで第二の心と言われてもそれが何なのかがわからなくなっているのではないだろうか。もしそうだとすれば、坐禅に関わるわれわれはこの点について改めて自覚的に参究してみなければならない。

 さて、ここでやっと予定していた本題のチョイスレス・アウェアネスである。しかし、実は本題にまったく関係のないことをこれまで縷々述べてきたわけではない。チョイスレス・アウェアネスもまた第一の心(=吾我=思考主導の心)が表で働いている限りは現成しない。一九六〇年代にアメリカで禅を広めることに大きな貢献をされた鈴木俊隆老師についてはこの連載でも何度か触れてきたが、その鈴木老師の第二講話録である藤田一照訳『禅マインドビギナーズ・マインド2ノット・オールウェイズ・ソー』(サンガ新書英文原題はNot Always So:Practicing the True Spirit of Zen)のなかに次のようなことが述べられている。「小さなモンキー・マインドを制御できている時に、ほんとうの大いなる心を回復しているのです。モンキー・マインドがいつも大いなる心の活動に取って代わっているときには、当然われわれはモンキーになっています。ですから、モンキー・マインドはボス(主人)をもっていなければなりません。それが大いなる心なのです。しかし、坐禅をするとき、大いなる心が小さな心を実際に制御しているというのではありません。小さな心が鎮まったとき、大いなる心がほんとうの活動を始めるのです。日常生活においてはほとんどの時間を、われわれは小さな心の活動に巻き込まれています。だからこそ、坐禅の修行をして、大いなる心を回復することに完全に専念する必要があるのです」と。 

この引用のなかの「小さな心」、「モンキー・マインド」は岡潔の言う「第一の心」、「大いなる心」は「第二の心」に相当すると言っても間違いではないだろう。鈴木老師もやはり仏教の「心の二相論」を踏まえて、坐禅を説くときに「小さな心を鎮めて大いなる心を回復することに専念している」という言い方をされているのである。本書には「普通の心、仏の心」と題された講話も収められている。これはまさに、第一の心、第二の心という岡潔の主張とつながる議論になっている。岡潔のいう「西洋人は第一の心しか知らない」という、極論に近い断言がもしも正しいとしたら、鈴木老師のこうした講話はアメリカ人の弟子たちにどれほど理解されたのだろうか?

無私である第二の心が回復されて働いているのがチョイスレス・アウェアネスだと言える。無私であるから、そこには思考の産物である「わたしという分離の意識」は登場してこない。そこで起きている経験に何一つ加えようとせずただそうあるままに受け入れている時には、その経験に対峙する、それとは別の「自分」というものは存在していない。あるのは、眼耳鼻舌身意の六根の働きによる知覚経験だけである。そこでは「わたし」が知覚をしているのではない。チョイスレスな気づきの場で刻々の知覚が起きているだけだ。こういうナマの経験の上に、思考が作り出す「見るもの」と「見られるもの」といった、虚構の能と所、主と客の分離がかぶさっていないのである。

 この点について、パーリ語仏典の中に次のようなブッダのことばがある。 「おぉ、バヒヤよ、色を見るときはいつも、見ることだけがあるようにしなさい。声を聞く時はいつも、聞くことだけがあるようにしなさい。香を嗅ぐ時は、嗅ぐことだけがあるようにしなさい。味を味わう時は、味わうことだけがあるようにしなさい。身の感覚を経験する時は、感覚であるだけにしなさい。思いが起こるときは、自然な現象(感覚)だけが心に起こるようにしなさい。このようであれば、自己はなく「私」はありません。自己がなければ、あちこちさまようことはなく、どこに留まることもないのです。そして、それがDukkha〈苦〉の滅尽です。それが涅槃なのです。いつでもこのようであれば、涅槃です。もしそれが続くなら、継続する涅槃です。一時的であれば、一時的な涅槃です。言葉を変えれば、これがたったひとつの道なのです。」(『バヒヤ経』)

見ることだけがあって、そこにそれを見ている「わたし」はいない。これを禅の伝統では「黙照」と呼んでいる。黙照の黙はそこでは思考が止んで「沈黙」が訪れていることを示している。思考とは心の中のおしゃべりに他ならない。この絶え間ないおしゃべりの中でも一番うるさく、しつこいのが「わたしが、わたしが」というおしゃべりである。チョイスレス・アウェアネスが深まって、こういうおしゃべりが鎮まったとき「わたし」が沈「黙」し、「照」の働きだけになる。この照が明澄であり寂静であるのは「わたし」が消えているからだ。このチョイスレス・アウェアネスについての論考を道元禅師作の『坐禅箴』の一節をもって終えることにする。不回互とは見るものと見られるものの対立がないという意味である。 

不思量にして現ず、不回互にて成ず。不思量にして現ず、その現自ずから親なり。不回互にして成ず、其の成自ずから証なり。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋