永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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前回の論考の最後に「息は自分が強いて起こさなくても、勝手に起こるのである」と書いた。

道元禅 師は『永平清規辦道法』の中で坐禅の時の息に関して「鼻息は通ずるに任せ」と書いている。

今回は この「息に任せる」ということについて考えてみよう。


われわれの坐禅においては、今、自分において起きている息に対して、「こうあるべきだ」、「こうあっ てほしい」といった強制、コントロールや期待、あるいは理想のイメージを押し付けることなく、息がひとりでに起きているままに許しておくという「許容的な状態」にとどまっていることが大切である。

そうやって、刻々の息をありのままの感覚としてこまやかにただ感じている(sensing)だけにしておくのである。

そうして息が自ずと調っていくのに任せておく。

もちろん正身端坐するところで初めてそれが可能になるのだが...。

しかし、実際のところは、これは言うは易く、行うのは難しい。息を自発的なものにしておくことは われわれにはなかなかできないのである。

それまで習慣的に無意識でやっていた息に、意識を向けると その途端に、どうしても息の自然な流れになんらかの人為的な干渉をしてしまうのである。

息が自発的に起こるままにしているあり方と、自分が息になにか「している」あり方と、その両者の微妙な違いが読者のみなさんには実感としてわかっていただけるだろうか?

ぜひ一度トライしてみていただきたい。 


このことに関連する体験談を二つ紹介する。

わたしが初めて坐禅をやったのは、もう三十年以上も前、鎌倉にある円覚寺居士林の冬の接心においてであった。

それまで坐禅は一度もしたことがなかった。

その時は指導者からいわゆる数息観(すそくかん)を行うようにとの指示を受けた。

わたしのように初心の者は誰でもそこから始めることになっているのだ。

数息、つまり坐禅の姿勢で坐りながら、自分の息を数えるのである。

「ひとーつ」、「ふたーつ」と心の中で数えていき、「とーお」まで数え、「とーお」まで数えたら、また「ひとーつ」 「ふたーつ」「みっーつ」......とこれをずっと繰り返すのだ。

数え方はいろいろあるのだが、自分としてやりやすかったのは息を吸うときに「ひとー」、息を吐く時に「つー」と数えるやりかただった。

途中で気が散ってどこまで数えたか分からなくなったら、またはじめに戻って「ひとーつ」「ふたーつ」と数える。

そのときのわたしは、「なんだ、息を一から十まで数えるだけなんて、そんなこと簡単じゃないか」と思ったのだが、いざやってみるとこれがなんとも難しいのである。

慣れない坐り方のせいで起きる脚や腰の痛さにさいなまれながら、一生懸命言われたとおり「ひとーつ」、「ふたーつ」 とやるのだが、「みーつ」が始まるころにはもう心がどこかにさ迷いだして息から離れ、数えるのを忘れ てしまう。

そのまましばらくあらぬ妄想にふけってから、はた!と思い出して息に注意をもどし、また「ひとーつ」、「ふたーつ」とやり直す、しかしまた気が散ってしまい...、その繰り返しでとても 「とーお」までたどりつかないのだった。

この時の坐禅は、今思い出してもほんとうに惨憺たる情けない有様であった。

坐がまったく禅になっていなかったのだ。

しかし、そのことがかえってわたしが坐禅に「首根っこをつかまれる」機縁になったのだと思っている。

「坐禅がうまくできなかった」のが結果的には良かったのである。

それはともかく、それ以後約半年ほどの間は数息観の坐禅をずっとやっていた。

そのうちにだんだん「ひとーつ」から「とーお」まで失敗しないで何サイクルも数えられるようになっていったのだが、ある時ふと「自分は数を数えるカウントに合わせて息をしている」ということに気がついた。

自然に起きて いる呼吸に意識を向けて、それを数えているのではなく、カウントに合わせるように意識的に呼吸をし て、呼吸を数えているつもりになっていたのだった。

息自身としては、まだ吐く息を吐き終わっていな いのに、あるいは吸う息を吸い終わっていないのに、もう次の数を数え出してそれに合わせて吸ったり 吐いたりしたり、その反対に、息自身としてはもう吐く息を終えて吸う息になりたがっているのに、あるいは吸う息が終わって吐く息になりたがっているのに、次の数を数えないで息の動きを押しとどめていたりしているということだ。

これでは「数息」にはなっているかもしれないが、「観」にはなっていないのではないか。

現に数のカウントに合わせた人為的な呼吸を長くやっていると、胸部に不快感が生じるようなことがあったし、数を数えていることで意識が肝心の呼吸それ自体ではなくむしろ数の方に偏ってしまうような時もあった。

こうして、数を数えることに自分が力を籠めすぎていることに気づいてからは、もっとリラックスして数息観をやるように心がけた。

からだがしたいように息ができるようにして、数えることではなく息の方に注意を注ぐのだ。

そうすると、数の方が息に寄り添うような感じになり、数えることがずいぶん楽になっていった。

息がスムーズになり、行法の風景ががらりと変わった気がしたものである。

「なるほど、こういう行法は正しい理解に基づいてやらないとダメだな。

ちょっとしたことで全然違ったものになってしまうのだ」ということを学んだ貴重な体験だった。

この点については誰かに指摘を受けて気づいたのではなく、ある時ふと自分で気づいたのだが、指導する人が最初から注意事項として教えておいてくれてもよかったのではないかと今は思っている。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》