(前回の講義)

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今回は「思量箇不思量底なり、不思量底如何思量、これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり。」のところを読んでいきます。

「思量・・・非思量」という表現は薬山惟儼(745~828)が坐禅しているところにある僧がやって来て始まった有名な問答に由来しています。

この一連の表現は『普勧坐禅儀』にも出ていますし、また『正法眼蔵 坐禅箴』の中でも詳しく論じられていますので、私が行った『普勧坐禅儀』のビデオ講座のこの部分を見ていただきたいし、WEB春秋というサイトに連載中の『正法眼蔵 坐禅箴』を味わうの、第3回https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/2451と、第4回https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/2575を読んでいただければと思います。

詳しい議論はそこに譲ることにして、ここでは私の最終的な解釈のみをお話しします。

「思量箇不思量底」は「思量は箇(か)の不思量底なり」と読み下して、坐禅中に浮かんでくる思量は、どれもこれも思いではないところ(不思量)から来るのである、ということです。

思いではないところというのは、絶え間なく思いを生み出し続けているいのちのはたらきを指します。

次の「不思量底如何思量」も「不思量底は如何なる思量なり」と読み下して、その思いではないところのいのちのはたらきは、思量と別に存在するのではなく、定型のない流れ続ける思量と不即不離であるということです。

そして最後の「非思量」というのは、目に見えないいのちのはたらきである不思量底と、それが如何という固定できないあり方で、現れた思量が不即不離に展開しているのが、思量を超越した自然のあり方(「非思量」)であり、坐禅においてはそれが丸出しになっているということです。

それが坐禅のやり方(「法術」)であるというのです。

 



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